“罰ゲーム”が嫌い

“罰ゲーム”が嫌い

人は何かゲームを行うとき順位や評価をつけ、その結果に応じて何かをさせたがるものである。

順位を付けて競い合うようにした方が盛り上がるし、結果によって何かあるならなおさらだ。

大規模なイベントでは景品や賞金として用意され、盛り上がるためのスパイスとして必要不可欠である。

しかしこれらの報酬は仲間内になると、罰ゲームというものに形を変えてしまうことがほとんどである。

私はこの罰ゲームというものがどうにも嫌いなのである。

 

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なぜ”罰ゲーム”とするのか

ゲームをし、楽しむ。

成績の良かった人に対して報酬が与えられる。

前向きであったはずの遊びが、仲間内になると罰にすり替わってしまう。

なぜなのか。そもそも私は何も悪いことはしていない。

この”罰”という言い方に非常に違和感を感じてしまうのである。

勝者への報酬と言いかえる

ただの言い方の違いと言われればその通りだが、敗者に罰があると言うより勝者に報酬があると言った方がポジティブなイメージがある。

敗者は罰として勝者にジュースを奢るというよりも、勝者は敗者にジュースを買ってもらえると言ったほうが気持ちが良くないだろうか。

前者はジュースを買わなければならないという、ネガティブな事象を避けるために頑張る。

一方後者はジュースを買ってもらえるというポジティブな事象を目指して頑張る。

後者のほうが動機づけとして印象が良いだろう。

 

はなから罰しか用意されていない場合はどうしようもないが、そもそも罰だけを用意する意味がわからない。

ゲームを盛り上げるためなら、報酬を用意すべきである。

わざわざ罰という考え方をしなくてもよいのではないだろうか。

私は罰ゲームが嫌いである。